独立行政法人国立国語研究所
昨日独立行政法人国立国語研究所というところから,何年か前に出したデジカメ本の中の記事を研究のために使いたいので著作権使用許可が欲しいという依頼がまいりました。
目的は現代の日本語文体の研究とのこと。
著作権ってどこにあるんだろう(をぃ)かと,よくわからなかったので版元の技術評論社に電話しようとしたんだけど,これがまた困ったことに数年間連絡を取っていない間に転居されていて,電話が繋がらない。
そこで技術評論社のサイトから会社案内を見たんだけど,これはこれで会社としての代表電話番号が書かれていない。
やむなくサイトに書かれていた広告担当かなにかの部署に電話をして,理由を話して書籍編集部の番号を教えていただくという。
何年ぶりに当時の担当の方とお話したんですけど,しっかり覚えていてくださいました。こういうのって嬉しいと思うのと同時に,さすがはプロだという感想も抱くんですよ。自分の担当したライターは,たとえ一冊しか出してなくても覚えてる。見事なプロだと思います。
著作権については,絶版にもなっていることですし,損害はないから,元々の著作権者である私の一存で問題ないとのことで。
もちろん絶版だからって著者でもない人が全文サイトに掲載したりすると訴えられますよ。そこは勘違いされませんように。
最近の書籍の傾向や景気についても少々伺ってみたりしつつ,またご縁があればということで通信終了です。ご縁はあるなしじゃなくて作らなくちゃなりませんけどね。もっとも今は書籍は2冊を抱えているので,ここで新しい書籍の話は難しく。
独立行政法人国立国語研究所さんについては,あえての拙著選択じゃなくて,無作為抽出でしょうから,取り立てて喜ぶほどのこともなく,まして研究素材でしかないわけでと。淡々と「了承します」というお返事をお送りしておきました。
いい機会だったので,件の書籍を斜め読みしてみました。今と比べると随分自由にのびのび書いていたなと思います。最近の自分の文章は窮屈でいけない。何かに怯えてるように萎縮しちゃってます。
元々,文章執筆のノウハウを学んできたわけでもなく独学で,いろいろと書いてきた内容も自得自習したものばかり,誰かの本や記事を底本にするということもせず,いつも身の丈で記事を書いていたんですね。底もない(自分が知っていることが底だから)けど天井もない(極めているわけではない)。だからのびのびと好きに書きつづっている。
10年もライターしているうちに,どこかで記事内容に保険をかけたり玉虫色にすることを覚えるわけです。図を出しておいて,説明ははしょるとか。そうすると,なんだか実は誰が書いた記事だとかどうでもいいんじゃないかっていう方向に進んでいるような気がします。個性がスポイルされていく。個性はプロフィールくらいにしか出なくなってね。
できるだけ正しいことを書きたいんだけども,正しければそれだけでいいんだろうかって考える。「あの人の本だからいい」「奴の本だからダメ」じゃなくて,「この本は正しい」「この記事は間違っている」とそれだけになっていくのかなと。
物を書けば欲が出るんです。自分が書いたんだぞって大きな声で言いたくなる。だけどそれを突き進めるとアクが強すぎて編集ウケしなくなる。もっとぐっと抑えてって言われちゃう。
何を目指していたのかが,すごくあやふやになっていくんです。そしてゴールが見えなくなるから迷う。迷うと書けなくなります。言いたいことはここにあるけど,それが文字になっていかないというジレンマにやられます。
ライターにもスランプはあります。内容に対してというよりも,思うことを形にする段階での迷いです。迷いがなければ,頭の中に沸いていることを雑誌の10ページ分書くのは4時間仕事です。プロットは既に頭にあって,それを追いながら日本語を”置いていく”だけですから。ところが迷ってると,これが最初の1行書くのに10日かかる。そして10日目にやっと書いた1行を翌日に消します。そしてまた10日。
昨年ストレスで顔の半分を麻痺させてから,どうにもスランプが続いていました。顔の麻痺が治ってからも,うまく字が置けない時には顔が引きつります。相当なプレッシャーの中で書いてるみたいです。
それがここ最近突然スポンと抜けて,いくらでも字が出てくるようになりました。ただ文体の個性のなさはね。デジカメ本読んだら落ち込みますね。つまんない物書きになっちゃったものだと。
無理に手足を伸ばしても,当時のような躍動感はでてきません。やはり抑えこみながら書くしかないようです。
これを悲しいとみるのか,プロらしくなったとみるのか。
ここは落ち込んでないで,気合いと根性と結果を見せろってとこですけどね。
つくづく孤独な仕事だな。
矢沢久雄先生と大村あつし先生に電話して泣き言言おうかな(結構本気の弱音)。
しまった,電話代がねぇや。